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前回の「ジメサァ像」を投稿するに際して、島津家十八代、薩摩藩初代の島津家久について、少なからずインターネット検索で調べた。それから数日して、慈眼寺自然遊歩道を歩いていると、ちょうど渓谷の中間あたりで、この古ぼけた立て札に、また「島津家久」という名前を見出した。 何度もこの道は歩いているのに、この立て札に注目したのは初めてだったし、常日頃、「偶然の一致」は重要視すべきだとも考えている。それに、この場所は散歩のコースとして重宝しているけど、心のどこかに、もっとこの場所について知りたいという気持ちはずっと潜んでいた。ほんのすこしだけ自分の時間を、「慈眼寺」の歴史探究に割こうと考えた次第である。 まず手始めとして、この古い立て札の文章をコピーしようと思う。以下、句読点は補ったが、それ以外は立て札そのままの文章である。 慈眼寺の由来 以下問題点である。 1.第6行目「福昌寺十八代賢和尚を開」 最後の「開」の寺の後に一字見えなくなっているが、それよりも重要なのは、「十八代 賢和尚」なのか、「十八代 代賢和尚」の誤りなのか、分かりづらいことだ。ウィキペディアの「慈眼寺」についての未完成の記述には、「18世・代賢和尚」と記されている。 2.第14〜15行「家久公はこの地を賞揚して、自分の号、慈眼の字 をもって自ら慈眼寺と名づけたといわれる。」 これについては、豊増哲雄著の『古地図に見る かごしまの町』(平成八年発行)では、「(この寺は)島津氏代々の尊崇が厚く、十八代家久は没後ここの寺の号から慈眼院という名をおくられた。」とある。前述のウィキペディアでは、この点に関しては記述が矛盾している。 3.和歌について 谷山観光協会発行の『谷山の歴史と文化財』(平成十六年発行)では和歌は以下のようであったとされる。 はし姫の滝のしら糸くりかけて紅葉のにしきなみやおりけん 家久 山水にちりてながれぬ紅葉葉はしらがみかくる橋の上かな 虎寿丸(十九代光久) しかし、なによりも第2番の問題点、この寺は昔から「慈眼寺」といったのか、それとも島津家久によって「慈眼寺」と改名されたのか、こういった基本的なことすら、まだぼくの頭の中では謎のままだ。 |
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大河ドラマ「篤姫」のバックグラウンド(1)
於一の生まれた天保6年という年は、全国的にみれば天保の飢饉真っ只中であった。 その生涯は丁度維新前後という激動に包まれ、日本全体が翻弄された時代でもあった。 ...続きを見る |
よく考えよう 2008/03/10 13:15 |
【戦国島津】慈眼寺跡
慈眼寺跡にきた。こちらは島津義弘の三男であり、初代薩摩藩主 島津家久(忠恒)の号「慈眼院」はこちらの「慈眼寺」からおくり名されたそうです。菩提寺がこちらかと思っていたけど、そうではなかったのかどうか。。。何冊か本を調べて.... ...続きを見る |
わんぱく遊湯倶楽部 2008/07/27 01:26 |
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